雑文集 V

 

自尊心

 自尊心という言葉は大変難しい言葉だと思う。誰もが程度の差こそあれ、いくばくかの誇りないし自尊心を持って生きているだろうし、それを傷つけられた時の憤りも多かれ少なかれ覚えているだろう。しかし皆本当に自尊心ということを分かっているのだろうか? たとえば以前に自分の誇りが傷ついた時のことを思い浮かべて、その傷ついた自尊心は本当の、真の自尊心であったのかどうかということを考えたことがあるだろうか。たとえば会社で、会議かなんかをやっていて、自分が自信を持って提案した事案が衆目の中で誰かに否定された・・・と仮定しよう。こういう時に自尊心を傷つけられたと思う人は多いと思う。自尊心を傷つけられて頭が混乱し、ムキになり、その後反対意見を言った人を違った場面でこき下ろしたり、陰口を言ったり・・・こんなことから人間関係まで悪くなったり・・・まったく同じでなくても似たような経験は無いでしょうか?事の発端は「自分の自尊心を傷つけたから」という理由です。誰しも、仕事でも趣味の領域の中でも、自分が「よく分かっている」とか「よく知っている」と思っていることはいくつかあるものです。そしてそれを否定されたり無視されたりすると、当然面白くない。その時に本当に大事なことは「どちらが正しいか」ということであるにもかかわらず、自分が得意だと思っていた領域を侵されるたということで、腹を立てる人が多いのである。そしてこんな場合の自尊心を(言葉の意味をあまり考えもせず)ほとんどの人が本当の自尊心だと思っているのである。私から言わせるとこれは単なる「自惚れ屋サン」なのだが。

 英語でPrideという言葉を辞書で引けば分かりやすいが、この言葉の意味には「誇り、自尊心、うぬぼれ、自慢、高慢、尊大」などという言葉が並んでいる。考え方を変えると「誇りや自尊心」はひとつ間違うと「自惚れや高慢」につながってしまうものであるらしい。誰しも誇り高い人間でありたいと思いながらそれがいつしか逆に「詰まらない自惚れ屋サン」になってしまうのは何故か・・・本当の誇りとか自尊心というのは一体どういうものなのだろうか。

 これは私の意見であり、けっして自惚れているわけではないが(笑)、誇りとか自尊心というものは「自己の内面(心)」に帰すものであって、他人に対して行使したり見せびらかしたりするものではないのである。この規定が曖昧だから、自尊心という言葉の意味が曖昧になってくるのである。たとえばよく知っていることをことさら他人にひけらかすような輩は私に言わせれば自尊心を持たない人間である。自分が間違っていることに気が付いた時は素直にそれを認めることが出来る人間はちゃんとした自尊心を持った人間である。単なる成金で偉ぶっているヤツは笑って許せるとしても、たとえば政治家、芸能人、家元・・・それぞれの道を究めたとされる人々でも、まったく鼻につくような高慢チキがいるが、こんなのはニセモノである。だいたい偉そうにしている人間ほど真に偉くはないものである。なぜならそれは自分以外の他人に対して自分の得たモノを見せびらかしているだけで、それにつられてオベンチャラを言う人間に対して快感を得ているだけであり、こんなものは誇り高いということとは無縁の所作なのだから。逆に本当に道を究めた人は寡黙であり、真摯であり、偉ぶらない人が多い。つまり自分に対して誇りを持って生きるいうことは、知識やら経験を詰め込んで自分が他人に対して偉くなってゆくということではなく、自分が自分に対して恥じない自分であるかどうかということを価値基準に生きてゆくということなのである。違いますか?

 

東尋坊

 その日は私だけがバイクに乗り、助手とK君夫婦とその子供たちは車に乗り、私の後に付いて走っていた。昼間は海に潜り、夜に三国海岸の町営温泉でゆっくりしたあとの、夜の10時過ぎの話である。そのあとキャンプをし、花火で遊ぶ予定だったので、テントを張るのに適当な場所を探していたのだ。私がバイクを止めて降りてゆくと、後ろに乗っていたK君夫婦が「さっき東尋坊の入り口あたりで、女の人が倒れてた・・・いや、マネキン人形だったかも・・・」と、言うではないか。マネキン人形がそんなところに落ちているわけは無い。多分それは人間に違いない。不吉な予感を感じながらも私は戻って確かめることにした。助手も「行こう!」と言う。三国方面に戻り、ちょうど東尋坊の崖に行く分疑点に差し掛かると、確かに赤いスカートを履いた女性が仰向けに倒れていた。K君と二人で近づいて見ても・・・ピクリとも動かない・・・。全体に細い手足、顔の色も血の気が無い・・・死体か???。正直言ってこの時の私の心臓はドキドキと鼓動していた。もし、死体だったらどうしよう・・・警察を呼んで、いろいろなことを聞かれるんだろうなぁ・・・実際、こんな現実的な考えが胸に浮かび、「おっくうに」なっている自分を見出したが、これは単に「死体を発見したかも知れない」という恐怖から、現状を投げ出してしまいたいという衝動を感じたせいだろう。しかし、この状況でまさか逃げ出すわけにも行かず、緊張感で心を震わせながら恐る恐る近づいていってよく見ると、胸が微かに呼吸しているのが見えた。「生きている!」・・・生きていることが分かってホッとしたかというと、そうではない。今度は倒れている人物に対する猜疑心がムクムクと頭をもたげてきたのである。何故、こんなところに倒れているんだろう・・・。いったいどこの誰なんだろう・・・。とりあえずさらに近づいて、声をかけた。「大丈夫ですかー?」・・・二度、三度声をかけた時、それまで動かなかった女性の、頭の上に置かれた右手がスーッと下に動いた。正直に告白すると、この時が一番怖かった。女性は起き上がろうとしてごくゆっくり頭を上げようとしているが、実はこの時右手に止めた車のライトがちょうど女性の顎の辺りから顔を照らし・・・そう、(彼女には悪いが)実に気味の悪い形相に写っていたのだ。普通なら起きようとしているのだから肩を抱えてやるとか、手助けをするのだろうが、私もK君も手が出なかった。夜中にこんなところに倒れているのは・・・ひょっとしたらゾンビかもしれない・・・。こんなあとで笑ってしまうような考えが実際に心に浮かんだのだから仕方が無い。息を呑んで見つめていると、やっとの思いで女性は歩道に座った。年のころ60半ばだろうか、生気の無い、青白い顔でうなだれて、無言でうずくまっている。

 「どうしたんですか?」私は尋ねた。最初彼女は俯いたまま何も答えなかったが、そのうちに小さな小さな声で、「東尋坊は・・・どっちですか・・・?」と、初めて声を出した。「東尋坊?すぐそこですけど?」と私は左手を指差し、何も考えずに答えた。顔を見て、声も聞き、とりあえず人間であることが分かると私も落ち着いた。あとはどうしてここに倒れていたのかという事情を聞かなければならない。と言って何を聞けばいいのか・・・。ひょっとしたら少し頭が変な人かもしれない。「どこから来たんですか?」という問いには福井からです・・・と小さな声で答える。彼女はそして「ごめんなさい」と言い、「もう(私にかまわずに)行ってください」とも言ったが、表情もしゃべり方も、ただならぬ気配である。「東尋坊には何をしに・・・」ここで私はこの自分の問いに自分でハッ!とした。そして彼女の返事も予想通りであった。彼女は目を伏せ、苦しげな表情で、やっと聞き取れるかどうかというぐらいの声でこう答えたのだ。「・・・もう、なにもかも・・・イヤになって・・・」。私はこの時初めて現実に直面した。彼女は自殺すると言っているのだ!。考えてみれば奇岩絶壁の東尋坊は自殺の名所でもある。断崖のあちこちに「思い直せ」とか「相談はここに・・・」とか立て札が立っている。頭から一瞬、血が引くのを感じた。・・・ど、どうしたらいいのか!?。「ちょっと待って、今警察呼ぶから・・・」。かろうじて頭に浮かんだままを声に出すと、彼女は力無く首を振りながら、「警察に連絡すると家族を呼ぶから、呼ばれると私が困るから・・・」と言う。だからこのまま捨て置いてくれと言うのである。「そんなわけにはいかないよ!」・・・このあたりから私は冷静になっていた。自殺すると言う人を置いてこの場を立ち去るわけには断じていかない。それに彼女は、しゃべり方を聞いても頭が変な人でもない。K君が「警察を呼んできます」といって車に向かう。代わりにK君の奥さんのM子が降りてきて、事情を聞くと、目から涙をあふれさせた。それを見た女性はしきりにM子に向かい「ごめんなさい、泣かないで・・・ごめんなさい・・・」と繰り返していた。私はそれを見て、「あぁ、この人はやさしい人なんだ」と思った。私は彼女を、哀れんだ。この世はやさしい人ほど傷つくように出来ているのだ。後で分かったのだが、彼女は右目の下に青痣を作っていた。おそらく殴られた跡だろう。やったのが旦那か、息子かは分からないが、今巷間を賑わすドメスティックヴァイオレンスかも知れない。しばらくして車が2台来て、1台は警察だった。もう一台は彼女を我々より先に発見して警察に連絡したカップルの車だった。警察は手馴れた様子で事情を聞き、私も聞いたことを説明した。特に家族に会いたくないと言っていることは強調しておいた。彼女の言うように警察が家族に連絡して彼女を家に戻してしまったらおそらく元の木阿弥になってしまうだろう。最後に彼女が立ち上がった時、私は思わず彼女の手をとり、「がんばってね、死ぬなんて言っちゃダメだよ」と励ましていた。自殺するなんて人には会ったことが無かったが、やはり世の中にはこうして苦しんでいる人が一杯いるのだろう。彼女がこのまま簡単に幸せになるとは到底思えないが、こうやって関わった人間の励ましが僅かでも彼女の「生きる」力になってくれたら・・・と思う。警察には言わなかったが、実は彼女は私との会話の中で、ポツンとこう言っていたのである。「力がなくなってここに倒れていても・・・誰も助けに来てくれなかった・・・」と。これは裏を返せば「誰かに助けて欲しかった」と言っているに等しい。これはまだ生きる力が彼女の中にあるという証でもある。なんとか生きて、いつか幸せを感じて欲しいものだ。

 ところで問題は助手である。私とK君が恐る恐る彼女に近づいている時、恐怖のあまり車の中でドアをロックしてなりいきを見ていたそうである。自分から「行こ!」って言っておいてコレである。そのうえ呆れたことに一件落着のあと、私が元の場所に戻り、テントを張ろうと言うと、助手を筆頭に全員がもうキャンプはやめて家に帰ろう!と一致団結したのである。びびりもココまでくると笑ってしまうが、ま、今の時期、バイクで夜ぶっ飛ばすのも悪くないか・・・と思い、そのまま趣味千山に引き返した。帰り道で、私の脳裏には彼女の寂しそうな顔が焼きついて離れなかった。

040808

 

好きな人嫌いな人

 万人を愛せる人はいないだろう。といってあんなのはイヤだ、こんなのはイヤだとわがままを言うのもあまり良いことではないとは思うけれど、実際は心の奥底で誰しも好き嫌いという感覚は持っていることだろう。 私の場合、昔はある意味で今より心の広い人間であった。というのも、どんな人間でも心の中で消化し、その人に合わせることが出来た・・・と思うからである。当時の感覚は「こんな人もいるのか・・・あんな考え方をする人もいるんだ・・・」などと好き嫌いを言う前に、人間に対する興味が先に立ち、自分が不快であるとか何とかを考えなかったということもある。だから私はけっこういろんな人と仲が良かったのだ。私にしてみればいろんな人を見るのが楽しみだったのである。そしてそういう気持ちは今でも多少持っているのだが、最近 それがすこし面倒くさくなった。とくに自分を不快にさせる人間との付き合いを敬遠するようになった。こういった気持ちの変化が「歳をとる」ということなのかもしれないと少しは反省するのだが、やはり魅力の無い人間とはもう付き合いたくない自分が、厳然としてここにいるので、実際困っているのだ。

 まず私は「騒々しい人間」がダメになってきている。よく巷で「ネアカ」という表現があるが、多くの騒々しい人間たちは、ネアカとは騒ぎ立てることだと勘違いしている節がある。根暗(ネクラ)の反対語で使われ始めたのだろうが、この意味は「考え方が暗い」という意味であって、だからネアカというのは「考え方が明るい」という言う意味なのである。あくまでも考え方が明るく、前向きだということで、ギャアギャアと自分勝手に騒ぎ立てることではないのだ。同じように、「押し付けがましい人」もダメだ。自分の価値観を押し付ける人。この世にはいろいろな価値観が存在していてどれが正しいとか間違っているとか一概に言えないことがたくさんある。押し付けがましい人とはこのことが分かっていない人なのである。若者ならともかく、いい歳をして無遠慮に自己のチンケな価値観を振りかざす人・・・このての人とは同じ部屋にはいられない。よく子供が言うことを聞かないと嘆く親がいるが、それは多分自分の価値観を押し付けているからだ。誰だってそれは一番嫌うことなのだ が、本人はそれが分かっていないのだ。親心からならともかく、他人にそれをしたら嫌われるということが分からない人がけっこういる。「愚痴しか言わない人」「自慢話しか言わない人」と同様、尊敬できない。昔は自慢話も愚痴もじっくり聞いてあげることが出来たが、最近は願い下げだ。聞いていてもそこからは何も生まれないし、第一楽しくない。愚痴も自慢も裏を返せば同じことだと気がついて欲しい。「ひそひそ話をする人」も好きではない。この世は普通の声でしゃべればいいことばかりであり、声を落とすということは自分に負い目のある人間である証拠だ。

 反対に好きな人は・・・上記の逆である人・・・つまりは自分がそうなりたい と願っている人のことだ。考え方が明るく、人を楽しくさせる人。人には人が感じるオーラみたいなものがあり、時と場所によって発生量は違うのだが、それが大きい人はやはり人間的に大きな心を持った人なのだ。一緒にいるだけでなんとなく楽しい気分にさせてくれる人がいい。これは理屈ではなく感覚であるし、一朝一夕でなりたいと願っても簡単になれるものではないけれど。人と人は心で会話をし、結局心どうしが絆を結び合っている。だから自分の心の大きさ広さが全ての窓口なのである。

041208 

 感謝ということ
 

 今までの私に足りなかった意識に、ある日突然気がついた。それは「感謝する」という意識だ。私は今まで、自分の人生は自分が決めて自分でやってきたのだと思い込んでいた。自分で考えて、予定を立て、行動し、結果は自分で全責任を負えばいい。だから人にも(自分に対して)何も文句は言わせないし、そういう意味では好き勝手な生き方をしてきたのである。金だって、自分で稼いだのだから自分で使って何が悪い!とまあこんなふうに思っていたし、普通は誰だってそう思っているだろう。しかしつらつらよく考えてみると、給料をもらっているにせよ自営しているにせよ、誰かが自分に対してお金をくれているから、私はこうして生きていられるのである。商品を売ってお金をもらう・・・対等のように思われるかもしれないが、商品を売ってもらったお金の中には商品代以外に、当然ながら自分が生活してゆくためのお金が含まれているのだ。払うほうだってそれは分かっている。・・・これって、とても有難いことではないか!。以前このコラムにも書いたが、腹が減った時に自分で飯を作るのは大変だし、歯が痛くなった時に虫歯を治してくれる人がいなかったら本当に大変だし、シェイプアップをしたいと思った時にちゃんとエアロビクスを教えてくれる人も必要だし、第一自分が子供のころに、意思とは無関係に私に読み書きを教えてくれた人がいるから、こうしてちゃんと字が書けるのだし・・・。辛いことがあった時に慰めてくれた人、間違ったことをした時に叱ってくれた人、愚痴を聞いてくれた人、一緒に楽しく遊んでくれた人・・・考えてみると私が今まで生きてこられたのは、自分の力で生きてきたのではなく、みなこれらの人によって生かされてきたのである。強いて言えば私の中にあったのは「意思」だけであり、その意思を実現してくれたのは全て周りの人達であったわけだ。
 こんなことに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。いや、気がつかなかったというのは厳密に言えば間違いだ。潜在的には気がついていたが、思考として思い至らなかったのである。人というのは面白いもので、言葉に出すと突然意識が変わることがよくある。例えば何かの場面で「私はこう思う」と言ってしまってから、内心「俺ってそんなふうに思っていたのか・・・」と自分で驚いたりすることがあるが、意識が内在している時はそれに気がついていないこともある。そういう意味で「言葉」とか「文字」は大切なものである。相手に「バカヤロー」といえば相手が嫌いになり、「好きだ」といえば本当に好きになる・・・逆だ!と思うかもしれないがそうではない。言葉や文字にはそういった不思議な側面があるのだ。
 話がそれたが、「人に感謝しなさい」とか「生かされている」とかの表現自体はあらゆる人や先人が言っていることでその言葉自体に新鮮味は無い。いろいろなことを体験し、紆余曲折を経てたどり着いたのがこんな「月並みな」言い古された道徳的感覚だったのである。誰かに言えば「そんなこと分かってるよ!」と言われそうなことだが、皆が分かっているとは思えない。大事なのは自分が本当に感謝することと、その気持ちの実践であろう。人というのは意外に周りの親しい人ほど(言葉は悪いが)ないがしろにしてしまう。親しいがゆえのマンネリズムかもしれないが、時には本当に傷つけあってしまうことも多い。しかし人が一番大切にしなければならないのは、自分を取り巻く人達である。私は今まで(性格は良いのだが)口が悪く、そういう意味ではいろんな人を傷つけてきたかもしれない。まずそれを直して行こうと思う。突如私の意識に現れた「感謝」という言葉の実践はそんなに難しくないのである。やっと分かったか!という人もいるかもしれないね(笑)。

 

仲直り

 大変面白い話だったので書いておこう。同じ会社で働いている二人、最初はそうでもなかったが、何があったのかここのところとにかく仲が悪く、顔を見ても口をきかないどころか挨拶もしない。お互いに相手の悪口を言い、ここ数年なんともならない関係であった。ところがある日、二人が車ですれ違った。その時一人が急に頭が痒くなり、右手で頭をかいた。これを見たもう一人が相手が挨拶をしたと思い込み、自分も挨拶を返そうと笑って手を上げたのである。それにつられて頭をかいたほうも笑顔を返した。そしてその後二人は挨拶を交わすようになり、これをきっかけに仲直りをした・・・というのである。身近に起こった単純明快な実話であるが、この話には面白い人生のヒントがある。まず、根本的に、人は皆と仲良く笑いながらやってゆきたいと思っている。ところがちょっとした行き違いやら詰まらないこだわりやらで、相手と仲違いするわけだ。そしていったん仲違いすると、相手のことを全て認めず、お互い意地を張り、けっして自分から打ち解けようとはしなくなる。そう、この話のように、相手が折れてくるのをお互いに待っているのだ。しかしこの扉がなかなか開かないし、開けないのだ。「いい加減にしろ、あの馬鹿が!」なんてお互いに思っているのだから始末が悪い。こういう時はお互い「もう永遠に仲直りの機会は無い」と思い込み、その反作用で相手のことを嫌いになろうとするのである。「これだけいやなヤツだから、俺は付き合わないんだ」と理由付けをするわけである。また、誰しも自分の生活圏の中に必ず自分にとって「苦手な人」というのがあるだろう。なんとなく雰囲気が合わない、ちょっと言葉を交わしたが、しゃべり方が気に食わない・・・。こんな初期の簡単な理由で相手のことを嫌いになって行く場合もけっこうあるだろう。こんな事例もある意味で同じ心理状態かもしれない。しかしそれは(実は)お互い様なのである。 面白いことに、よくよく話を聞くとこの世のほとんどの人が「自分のほうが正しい」と、漠然と思っているようだ(笑)。しかしこれは妙なことで、もしそうなら、実際はほとんどの人が誤解をしているのだ、とも言えないか?。もっと言うなら、みな人間なんて同じようなことを考えているのだとも言えないか?。生活習慣とか、考え方とか、性格が多少違うだけで、人間の根本がそんなに多様だとも思えない。ということは、簡単に言えば、自分の考えてることを他人も考えている・・・ということを知ることが大切なのである。

 冒頭の話で分かるように、結局誰しもが内心では仲良く皆と暮らしたいと思っている。仲直りをしたいと思っている。そう思い至ったら・・・詰まらないこだわりや意地は捨てて、相手の懐に飛び込む度量が欲しい。自分から「ゴメン!」って謝ってみな!。苦手な人にも一度じっくり話かけてごらん。けっこう話の分かるヤツだったってこともよくあるから。これが出来ないと、人生が難しくなるのだ。生きてゆくのが大変だ・・・とため息をつかねばならないのだ。妙な意地を捨てると、急に人生が簡単明快になり、楽しく暮らせるようになるのである。

050504

 

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