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そのB

 1月21日 

 1日中バスの中。

 時々バスはバス停のある村に止まり、そこで乗客が少しずつ入れ替わる。バス停の近くには必ずバールがあり、そこで休憩したり、カフェやピンガを飲む。相変わらず靴磨きの子供たちが寄ってきて靴を磨かせてくれとせがむ。僕の格好と言えばTシャツにジーンズ、靴は履き古した革靴だった。こんな靴をいちいち磨いていられない。「ノン、ノン」と言いながら歩く。

 ブラシリアから隣の席に座っている女性と少し話す。ヘジーナという僕より少し年上の、なんと言ったらいいのか・・・決して美人ではなく、しかも少しばかりヘンな女の子である。どこに行くのかと聞いたら、「マイアミ」と答える。なんでマイアミに行くのにこのバスに乗っているのか不思議に思ったが、強いて問いただすのはヤメにした。この時僕の頭の中はレイラのことで一杯だった。

 この日の夕方、バスに乗り合わせた若い連中と、名も知らぬ街のレストランで夕食を食べながら話をしていた。その中の一人は僕にペレと一緒に写った写真を見せ、得意げにサッカーの話をはじめた。日本でいえばさしずめ長島選手と一緒に写っているようなものだから、そりゃ得意になるだろう。写真は大切に彼のパスの中に収められている。ここでも日本の話が出たが、もうまるきり話にならない。今の日本のことは何にも知らないのである。ここブラジルには日系人が相当数住んでいて、どの街や村にもいるのだが、実際彼らはやや閉鎖的で、日本人だけの社会を築いていることが多い。もともと島国的な国民性なのだろうが、レイラもそれを言っていた。

 「なぜ日本人は日本人としか結婚しないの?」

 僕のサンパウロの叔父さんの兄弟の子供たち(2世)を見ても、唯一一番下の弟の子供たちの一人がポルトガル人と結婚しているだけで、あとは全員日本人同士の結婚である。少し寂しい気がした。

 そのうち奥のテーブルが騒がしくなった。隅っこのテーブルで独りウイスキーを飲んでいた目つきの悪い若造が、突然、飲んでいたコップを床に叩きつけて暴れだしたのだ。そして誰も止めないのをいいことに、テーブルの上の物まで投げ捨て始めた。レストランのオヤジと目が合った。その目はすごく困っているように僕には思えた。

 僕は意を決して立ち上がった。彼の傍まで歩いていって、

 「ヴォセ コニャンセ カラテ?(空手を知っているか?)」

と空手の真似をして身構えてやった。

 ブラジルでは空手と柔道はかなり有名で、日本人を見るとブラジル人は「空手をやるか」とか「柔道を教えてくれ」などと言うくらいで、この時もその若造は僕をびっくりした目で一瞬見つめ、ブツブツ言いながらも大人しくなってテーブルに座った。僕は中学の時に少し柔道をやったくらいで(しかも弱かった)、空手なぞやったことも無かったから、果たして僕の格好が空手に見えたかどうかははなはだ疑問であるが、ともかくその場は収まったのである。日本だったら僕は絶対そんなことをしていないだろう。レストランのオヤジと目が合った瞬間、僕は何故か日本人を試されているような気になっていたのだ。その後行ったリオデジャネイロでもそうだった。周りの人が、「ジャポン(日本人)は泳げるのか?」と言ったことにムキになり、イパネマの海岸でひとりで沖まで泳ぎ、帰りに引き波に揉まれて疲れ果て、溺れそうになったことがある。「地球の裏側」で一人旅をして人々に囲まれていると、自分が日本人の代表だと思ってしまう。一人旅にはそんな一面があるのだ。

 食事が終わって再びバスに乗り込む。先ほど飲んだビールが心地よい眠りを誘う。

1月22日

  14時 ベレン着。

 言葉もろくに通じない外国の旅。あちこち見て回るのは楽しいが、その都度泊まる所を探すのは割と億劫なものである。金が有り余っていれば思い煩うことも無いのだが、小生のような貧乏旅行ではそんなわけにもいかぬ。この時の僕はすでに良い方法を身につけていた。あらかじめ目的地につく前に乗り物の中で、自分と同じ程度の身なりをした旅行者を見つけ、彼と親しくなっておいて、あとは彼の探すホテルの門をくぐるのである。

  

 ベレンで僕は、ヘジーナに安いところを探してもらった(上の写真)。そこは確かに安かったのだが、到底ホテルとは呼び難い、むしろギニアの捕虜収容所(見たことは無いが・・・)と言ったほうが適切な建物であった。しかし、ベッドで眠ることができれば良いのである。贅沢は言っていられない。

 収容所を出て町を見に行く。赤道に近い街はなんとなく惰眠している。思ったより暑くは無かったが、アマゾンの河口部に位置するため、ムシムシしている。まずは船着場に行ってマナウス行きのナビオ(船)の時刻表を見る。

× × × × × × × × × × × × × × × 

 この旅行を計画していた時、僕は極めて日本人的な考えをもってサンパウロの旅行社を訪ねた。すなわち、ブラジリアに何時何分に着いて、ベレンに何日の何時何分に着いて、そこからの船は何時に出発するのか・・・そんなことを聞きに旅行社を訪れたのである。日本では常識的な旅行計画である。

 しかしやはりここはブラジルであった。

 「ノン セイ!(知らないわよ!)」 

 僕がベレン〜マナウス間の船の時刻を尋ねると、涼しい顔をして旅行社の女事務員は言った。そういうことは現地に行かないと分からないと言うのだ。正直に言ってなんて国だと思ったものだ。しかし考えてみればバスに乗ってサンパウロからアマゾン旅行に行こうなんて人間は皆無なのだし、急ぐ旅でもないし、考えようによっては面白いかもしれない。こう思い直してこの無計画旅行がスタートしたのだ。

× × × × × × × × × × × × × × × 

 船の時刻表を見た僕は愕然とした。

 明日も、明後日も船は無かった。明後日どころか、31日まで全然無いのである。

 石畳の坂の途中にあるバールに入り、セルベージャ(ビール)を飲みながら呆然と考えた。飛行機は毎日出ていたから、飛行機に乗ってマナウスまで行くか、31日まで待つか。「アマゾン川を船で行く」と言うのが今回の、と言うより、日本にいた時からの夢だったので、何が何でも船に乗らなくてはならない。と言って滞在費と航空運賃を天秤にかけてみると、どう考えても飛行機代のほうが安い。テーブルに地図を広げ、僕は思案した。

 最初に計画を立てた時はマナウスに行って引き返すつもりだった。しかし飛行機でマナウスまで行って、今度はマナウスからベレンまでの船がすぐ出発するとは思えなかった。僕は広げた地図に目を凝らし、マナウスから南西に伸びる川に注目した。マデイラ川といってアマゾン川の支流で、そこにポルトベーリョという街がある。そこから道がクヤバという街に伸び、そこから東に道を走ればブラジリアに帰ることができる。これだとブラジルの内陸部をグルッと一周することになり、マナウスまで行って帰ってくるより面白そうではないか!。思い通りにことが運ぶかどうか分からないが、なるようになれだ。とりあえずは飛行機でマナウスに行こう。そう、飛行機も面白いではないか。アマゾンを上空から見るのもいいぞ・・・。そう決めると僕はわくわくした。

 収容所の僕の部屋から、窓越しにアマゾン川が見えた。赤茶けた泥水はまるで湖のようで動かず、たそがれ色した風景の中で西日を強く照り返していた。日本にいる頃夢にまで見たアマゾン川は、やっと僕の目の前に姿を現したのであった。

 1月23日

 朝食を済ませ、飛行機の切符を買いに街に出た。ヘジーナもついてきた。熱帯の町には見たことも無い果実があふれている。青白っぽい大きな果物があった。ソアレス氏が美味しいと教えてくれたバクリーであった。大きかったので買わなかったが、1個1コント(45円)であった。代わりに椰子の実にストローを突っ込んだのを飲みながら、公園をぶらついていると、乞食たちが道端で商いをしている。その中に下半身の全く無い人間がいた。胴体だけの人間である。50センターボス(半コント)の硬貨を手渡すと、嬉しそうに僕に笑いかけた。僕もつられて笑ってしまった。

 僕は明日の6時半の飛行機の切符を買った。ヘンな女の子のヘジーナは、僕について回り、僕がマナウス行きの切符を買うと、突然、

 「わたしもマナウスに行くわ!」

 と自分も切符を買ってしまった。驚いた僕が、

 「マナウスにはマイアミビーチは無いよ!」

 と言ってもテンで気にも止めず、マイアミでなくても、カナダでもどこでもいいのだと言い出す始末。こりゃ、あまり相手にしないほうがいいぞと思い無視していたが、ふと心配になってビザはあるのかと聞くと、無いと答える。いったい何をしに行くのかと聞くと、アメリカの大学に行くのだと答える。仕方が無いのでビザの取り方を教えてやったが、ベレンはもちろん、マナウスに米大使館などあるわけは無く、ブラジリアに戻らなければならない。ブラジリアに戻ったほうが良いと言うと、とりあえずはマナウスに行くのだと言い張る。もう勝手にしろ!と僕は何も言わなかった。

 身の潔白のために僕はここに誓う。僕は彼女に何もしていない!。

 ホテルに帰り、清算する。2泊して、食事付で30コント(1400円)!。安い。明日の朝は5時には起して欲しいと女主人に頼み、10時半には寝る。(翌朝この約束はいとも簡単に破られるのであるが・・・)

 寝る前にソアレス氏がくれた例の日本語の本を読んでみる。「精霊の書」と題されたこの本は肉体と魂の分離を原点に、なかなか説得力あふれた解説がしてあったように記憶している。

 1月24日

 朝6時半。飛行機はベレン空港を飛び立った。収容所の女所長は寝過ごしたのか、忘れたのか、全く僕を起してくれなかった。ヘジーナが5時過ぎに僕を呼びに来て目が覚めたのだ。慌てて飛び起きてタクシーに乗って空港まで行った。僕の乗った飛行機にはなんと機体に[SAMURAI]と書いてあった。

 空から見るアマゾン川は川と呼ぶには大き過ぎる。僕の体のすぐ下には深い原始林(マット)の中に果てなく蛇行して流れる大アマゾンがあった。言い忘れたが、アマゾン河口にある島はマラジョ島といい、その大きさはちょうど日本の九州と同じである。

 地球上の酸素の実に半分はこの原始林の呼吸によって生まれているらしい。その景観は地平線の彼方まで、まさに深い緑海と言ってよかった。

 アビヨン(飛行機)は途中、サンタレーンという滑走路だけの空港に降り、そこで荷物と人を乗せたあと、再びマナウスに飛び立った。

 午後の1時。大自然に我を忘れて見入っていた僕はマナウス空港に降り立っていた。

 

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