【カフェとピンガの国を行く】 BRASIL紀行記

Leila & Mariaalice

私は学生時代の1972〜73年にかけて約半年間BRASILに遊んだ。

28歳の頃、ある会社で社内報を作った時、私は自分の紀行記をそこに載せた。

今回はそれに若干書き加えたものをここに載せてみよう。

実は勤めていたその会社を4年で辞めたため、私の紀行記も途中で終わっているのだ。

 その@

《行程地図を見たい人はここをクリックしてください。》

 1973/1/12 夜、9時半。

 シューッという音とともに、扉が閉まりバス(オニブス)はゆっくり動き始めた。今夜サンパウロを発って首都ブラシリアに着くのは明日の正午、約1200kの道のりだ。

 ブラジルは人種の坩堝。同じ南米でもペルーとかアルゼンチンはスペイン人が征服し、ブラジルだけはポルトガルが征服した。スペインとポルトガルは人種も言語もほとんど同じで似た国に思えるが、南米に対する植民地政策は 大いに違った。すなわちスペイン人は征服した国々の原住民を殺戮し、撲滅しようとしたのに対し、ポルトガル人はむしろ融和し、混血を奨励する政策をとったのだ。だから僕の乗ったこのバスの中を見渡しても、北方民族以外はほとんどの人種が乗り込んでいるみたいである。白人、黒人、黄色人種、そしてそれらの間で繰り返された混血によって、じつにさまざまな人間が出来上がっている。それらをひっくるめて『ブラジル人』と称するのである。

 カンピナスのバス停に止まる。この街をブラジルの人は『オカマの街』だと言う。なんでもこのカンピナスにはオカマが溢れているんだそうだ・・・。どうしてそうなったのかは知らないが、バスの窓から夜目に見たカンピナスの街明かりは、漆黒の丘に煌めく宝石を散りばめたようでなかなか綺麗であった。

 リオクラーロで休憩。バスの運転手が客席を振り向いて

「ディス・ミヌートス!(10分間)」と叫ぶ。

背伸びしながらバスを降りてバス停の中にある薄汚れたバール(Bar)に入りピンガを注文する。ピンガとはブラジルの焼酎で、原料は特産のサトウキビだ。だからやたら甘く、そしてアルコール度数も強い。小さなグラスに注がれたヤツを一息でグイッと飲み干すと、胃袋がびっくりして熱くなる。1杯が1クルゼイロ(当時約45円)である。

 バスが発車してしばらくは明日のことを考える。ブラジリアのバス停にはソアレス一家が迎えに来てくれている筈である。この家族に僕が会ったのは昨年の10月初め、僕がまだブラジルについて2週間も経っていない時だった。


 そもそも僕がブラジルに来たのは、そこに僕の叔父さん(と言っても僕の祖母の兄弟)がいたからで、叔父達は家族で昭和の初期にブラジルに渡った、つまり移民である。もちろん初めは農業で生計を立てていたがそのうち息子達がサンパウロでオンボロバスを買って路線バス会社を始めた。それが当たり、今ではけっこう大きなバス会社と旅行社になった。僕はその叔父を頼ってブラジルに遊びに来たのであるが、ブラジルに着いてしばらくして叔父が「うちの旅行社で1週間ほどのバス旅行があるから、行っておいで」と言ってくれた。ブラジルを見て歩くには絶好である。日系二世の添乗員も付くから言葉も困らない。行き先はオウロプレート、ベロオリゾンテ、ブラジリア、パウザダ・・・など内陸部の都市や町を見て歩くツアーだった。団体は後家さんばかりの、賑やかなツアーだったが、言葉もろくに通じない僕にいちいち丁寧にブラジル語を教えてくれた。でも、わざわざ訊かなくても覚えられる言葉もけっこうあった。彼女たちは美しい景色を見ると”ボニータ!”と歓声をあげ、バスが目的地に着くと”シェガーモス!”と口々に言葉を発した。

 「ボニータ」・・・キレイ 「カンサード」・・・疲れた 「シェガーモス」・・・到着! 「セルベージャ」・・・ビール、「ゴストース」・・・美味しい。こんな言葉をすぐに覚えた。もちろん日本を発つ前に僕はブラジル語(ポルトガル語)を本で勉強していったが、全く役に立たなかった。習うより慣れろとはよく言ったものだ。

 そしてその後家さんツアーの最後の日、我々のバスはパウザダに到着した。そこは大きなリゾート地で、リオ・クェンチ(熱い川)と呼ばれていることでも分かるとおり温泉である。温泉と言っても日本の温泉とは全く違い、大きなプールがいくつかあり、人々は水着を着て風呂に入る。いや、泳ぐ。

 夕方に着いた我々は食事を済ませ、暗くなってから水着を着て温泉に泳いだ。ブラジルにはもちろん日系の人々はたくさんいて珍しくも何ともないが、純粋の日本人旅行者というのは当時珍しかったようだ。僕が旅行者だというのでいろんな人が回りに集まってきて、いろんな質問を受けた。一番面白かったのは『日本から香港まで汽車でどれくらいかかるか?』と聞かれたことだ。国が違うということを僕はたどたどしい英語で説明せねばならなかった。そして私を取り囲んだ人々の中にソアレス氏がいたのである。彼は非常に英語が達者で、オマケにラテン系の人の発音は僕にもとても聞きやすかったため、僕と長い時間喋っていた。そしてしばらくしてそこにレイラとマリアアリスとルイーズが現れたのだ。彼らはソアレス氏の子ども達だ。レイラは18歳の大学生。マリアアリスは16歳の高校生。少し歳の離れたルイーズは12歳の小学生だった。

 ソアレス氏がルイーズを連れてホテルに戻り、英語の喋れないマリアアリスはどこかに行ってしまい、僕はレイラと二人きりになった。僕らはそれから夜中まで延々とプールサイドで喋り合った。日本のこと、ブラジルのこと、アメリカのこと、大学のこと、歌の話・・・そして僕達は夜空を見上げて、南十字星(クルゼイロ・ド・スル)を探した。『あそこと、あそこと、あそこと・・・』南十字星とは5つの星を十文字に見立てていることを、南米に来て初めて知った。それまで僕は十字星というのは大きな、燦然と輝く星だと思い込んでいたのだ。つまりこちらで言う北斗七星みたいなものだった。

 レイラがその横に輝く三つ並んだ星を指差して「あれがトレス・マリアよ」と教えてくれた。日本で見るオリオン座に良く似たトレスマリア・・・「こっちのほうが好きだなぁ・・・」と言うと、レイラも小さくうなずいて、「私も・・・」と呟いた。

 僕らはすっかり仲良しになった。僕らはビールを飲みながら、12時過ぎまでお喋りした。レイラも僕も流暢とは言い難い程度の英語だったが、時々ポルトガル語やら日本語が飛び出して・・・言葉は通じなかったが、心が通じたのだと思う。さすがに人影もまばらになった頃、ソアレス氏が呼びに来て、我々はホテルに戻った。明日の朝は、もうサンパウロに帰らなければならない。

 「チャオ!」レイラが手を振った。

 次の日の朝、6時半に朝食(カフェ)に行くと、レイラが食堂で待っていてくれた。僕らはカフェを飲み、クラッカーをかじりながら最後のお喋りを楽しんだ。バスがクラクションを鳴らした。僕に早くバスに乗れと言っている。レイラは僕に紙切れを渡した。そこには住所と電話番号が書いてあった。「手紙を書いてね!」僕はうなずいてバスに乗り込んだ。バスの中で、後家さん達にからかわれた。ラテン民族共通の明るさで、彼女らは「いい子を見つけたねぇ・・・」などと笑いながら僕をからかって喜んでいた。帰りのバスの中で僕はレイラのことだけを考えていたっけ・・・。

 サンパウロに帰ってから僕らは文通を始めた。そしてその中で僕は1月にアマゾンに行きたいと書いたら、レイラがさっそく「うちに遊びに来て!」と書いてきてくれたのだ。普通アマゾンに行くには飛行機に乗るのが一番早いのだが、それでは面白くない。やはりブラジルの大地を踏みしめていかなければ・・・それにはバス旅行が一番だ。それならブラジリアに寄れるじゃない・・・ぜひ泊まっていって!、ブラジリアを案内するから、というわけだ。


 そんなわけで今回のアマゾン旅行の途中、ちょっと道草を食うつもりで2,3日立ち寄ろうとしているのである。レイラには昨日電話をして、バスの時間を知らせてあるので、多分待っていてくれるはずである。

 1月13日

 走るバスの中で目が覚めた。名も知らぬ村のバス停のバールで朝食をとる。バスが止まると近くの子ども達が裸足ですっ飛んできて、やれ靴を磨かせてくれ・・・だとか、果物を入れた笊を持って後ろにくっついてきたりと・・・なかなかうるさい。これはどこの街や村に行っても同じで、この頃になって慣れては来たものの最初は戸惑ったものだ。

 バスは走る。真っ青な空に、この国特有のまあるい綿菓子のような雲が浮かび、大地は見渡す限りの丘陵が連なっている。大自然の風景の中にまっすぐな道が切り開かれ、ひたすらに、ただひたすらにバスは走る。そしてほんの時たま、車とすれ違う。どこまで行っても同じ風景が延々と続く。

 

ゴヤニヤ到着。12時。

 バスは2時間も遅れている。(後になって僕はこの表現がはなはだ適切ではなかったと気がつくのであるが・・・)昼食(アルモッソ)をとってバスに乗り込むと隣の席に可愛らしい女の子が座っていた。喋りかけると、彼女は英語がほとんど喋れなかった。しかしこの頃僕はポルトガル語が少しは喋れるようになっていたので、バックから日本語-ポルトガル語辞典を取り出し、いろいろ話した。何せバスの旅は退屈だ。彼女も同じと見えて、いちいち辞書を引きながら話をすると、彼女が今ブラジリアの大学2年生で心霊学に興味を持っているらしいことが分かった。名前はグローシアといって、カバンの中から心霊に関する雑誌や本を取り出して僕にいろいろ説明してくれた。彼女のおかげで僕はゴヤニアからブラジリアまで少しも退屈を感じないですんだ。

 やっとブラジリアに着く。マリアアリスがバスを降りた僕を見つけて真っ先に手を振った。レイラも気がついて手を振る。グローシアに別れの握手をして、僕はソアレス氏の運転するフォードに乗り込んだ。話し好きなソアレス氏は車の中でブラジリアの紹介を例の流暢な、分かりやすい英語で説明してくれた。

 「私がブラジリアに来た時は、本当に何もなかった。だんだん建物も建って人も増えてきた。・・・あそこに見えるのが国会議事堂で、その横に建っているのが私の勤めるブラジル銀行(Banco do Brasil)だよ・・・。」

 ブラジリアは言うまでもなくブラジルの首都である。ブラジリアに首都が移るその前は、リオ・デ・ジャネイロにあったのだが、「広大な内陸部に目を向けよう」という発想から、首都が移された。そして面白いのは、ブラジリアの街は全体が上から見た飛行機の格好をしているのだが、その機首が向いている方向はリオなのである。つまり人々はやはりリオを懐かしんでいるのである。そしてその操縦席に当たる部分に国会議事堂が位置しているところなんか、とても凝っている。一般の住宅街は翼に当たる部分にあり、ソアレス氏の住むのはヒグソル・・・、つまり南側の翼だ。

 家に着く。他のブラジルの町とはずいぶん違う。3軒づつにブロックになった家が平行にズーッと続き、ブロックとブロックの間に芝生が敷き詰めてあり、それがそれぞれの家の庭みたいなものだが境界はない。

 「コモバイ(こんにちは)マコト」 

 出迎えてくれたソアレス夫人がドアを開けて僕を家の中に招き入れてくれた。ソアレス氏が僕の肩に手をかけて、ここがキッチン、ここがベッドルーム、ここが居間・・・と家中を案内してくれて、最後に居間の横の5畳ほどの部屋に入り、 

 「ここが君の部屋だよ、マコト。この机もベッドも君のものだ、気楽に暮らしてくれたまえ」と大きな声と身振りで言ってくれた。

 レイラが横に来て僕に、小さい声で

 「何日くらい居るつもり?」と聞く。

 僕が

 「うーん、二、三日のつもりだけど・・・」

 と答えると、大きく目を見開いたレイラは

 「たった?たった2、3日?パパ・・・マコトは2、3日しか居ないって言ってるわ!」とオヤジさんに伝えると、ソアレス氏がまたまた大袈裟な身振りで両手を広げ、

 「何言ってるんだ、マコト、それくらいではブラジリアは何も分からない。せめて一週間は泊まっていきなさい。」

 僕は、そうすることにした。

 ソアレス夫人の手作りのジャンタ(夕食)が終わり、居間のソファーに座った僕は歌を歌わされた。というのもレイラと文通していた僕は、手紙の中で自分は歌が好きでギターを弾くと書いたからである。

 「マコトはギターを弾くのよ」

 と言ってレイラは自分の部屋からオンボロのガットギターを持ってきて僕に渡した。

 「カンタ!カンタ!(歌って、歌って!)」マリアアリスとルイーズが声を合わせる。

 仕方なく僕は一曲歌った。楽しい曲がいいと思って、Beatlesのオブラデオブラダを歌った。みんなが手を叩き、足で拍子をとって、そのうちルイーズが踊り始めた。僕はすっかり楽しくなってしまった。以前どこかで聞いた言葉が思い出された。

 ―音楽とは世界共通の言葉である―

 シャワーを浴びて、僕は満足感に浸りながら、与えられた部屋のベッドに身を横たえた。

 

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